興福寺阿修羅像の作者は誰?歴史を学ぶには最適かも!?

2009年に東京、並びに九州の国立博物館で「国宝 阿修羅展」という特別展示が催されました。
主役は、興福寺阿修羅像。テレビで特集もされ、一大ブームになっていたので、訪れた方もあるかも知れませんね。

近頃は、仏像に興味を覚える人も増えていると聞きますが、とりわけ、痩躯に三面六臂、他の仏像とはちょっと違うお顔立ち──という興福寺阿修羅像は人気があるように思います。

さて、この「国宝 阿修羅像」。普段は何処にいらっしゃるかというと、興福寺の宝物館です。
今回は興福寺阿修羅像の基本情報として、興福寺の歴史や像の作者などについてご紹介します

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そもそも、興福寺とはどういうお寺?


興福寺があるのは奈良県奈良市。
歴史の教科書では、藤原氏の氏寺、或いは平安時代末期に朝廷などへの強訴を為した僧兵たちの一拠点として名前が出てきます。
また、天平文化を代表する仏像の一例として、興福寺阿修羅像の写真が載っていることもあります。

もう少し詳しく記しますと、そもそもは京都山科に建立された、山階寺が最初です。
それが、都の移転に合わせて寺院の場や名も変わり、平城遷都の段になって、藤原不比等が現地に移し、名も現在の興福寺となりました。

当時の都、平城京の図というのも、よく教科書に載っていたと思います。
右側に少し飛び出した部分のある独特な形で、その「外京」と呼ばれる場所に興福寺もありました。

碁盤の目のような図を見るだけでは分かり難いですが、実は興福寺は高台にあります。
天皇の住まう宮を含め、都を見渡す位置にある辺りに、摂関家藤原氏の礎を作った、藤原不比等の持つ権勢が表れている様に思いますね。

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歴史ある興福寺阿修羅像の作者とは?

この様に古い時代からある寺院。当時と同じだけの規模が現在も残っている訳ではありませんが、この時代から残っている貴重な文化財の一つが阿修羅像と言えます。

とかく、「興福寺阿修羅像」と、この一体だけが注目されていますが、実は国宝の登録の形としては「乾漆八部衆立像」の中の一体です。
それも、本来は現在は焼失した西金堂において、本尊である釈迦如来像の周囲を守る様に並んでいました。

これら八部衆像の作者については、興福寺から近い東大寺の正倉院に保管されていた所謂「正倉院文書」に“仏師将軍万福”の記述が残っています。
百済からの渡来人と言われており、八部衆像のほか、同じく興福寺に六体が残る残る十大弟子立像の作者も彼と言われています。

まとめ

興福寺という寺院は、先ほど教科書のお話をした通り、日本の歴史の中で度々登場する名前です。

自身の娘を天皇に嫁がせて、生まれた子が天皇に──という藤原摂関家のスタイルは不比等の時代からあり、その力の強さが興福寺に現れています。
平安後期には僧兵と言う武装集団が現れ、源平の争乱の際には、平重衡による南都焼討ちによって、伽藍の多くが焼失しています。

また、神仏習合によって傍にある同じく藤原氏の氏神を祀る春日大社と共に大きく発展をしながらも、明治の神仏分離で打撃を受け、一時はほぼ廃寺の様な状態にも陥りました。

それが、何とか再興を果たし、また奈良時代からの貴重な仏像を今も尚、保管して拝観することが出来るというのは、奇跡的なことなのかも知れませんね。

その様な波乱万丈の歴史の中を潜り抜けた興福寺阿修羅像、非常に美しい姿を作者が何を思い作ったかなども想像しつつ、お顔を見に伺いたいですね

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