興福寺仏頭はなぜ山田寺から移されることになったのか解説します!

「興福寺仏頭」とも称される国宝があります。

本来は名前の通り、興福寺の国宝館に展示されていますが、何度かお伝えしている通り、現在、耐震工事中で国宝館に入ることは出来ません。

ただ、興福寺仏頭については、12月まで同寺院の東金堂に遷座されており、そこで拝観することができます。

実はこの「東金堂」という場所に移されたのには、ちゃんとした理由があるのです。

今日は元々は山田寺のご本尊であった仏像の辿った軌跡、興福寺仏頭についてご紹介します。

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まず基本情報、山田寺について知ろう

出典URL:http://www.bell.jp/pancho/asuka-sansaku/images/yamadadera/yamadadera-01.jpg

まず、興福寺仏頭がそもそもあった、山田寺(やまだでら)についてです。

明治期に一度廃寺となり、また再興されていますが、そもそもは大化の改新の頃に建てられた寺院で、場所は現在の奈良県桜井市にありました。

開基は日本古代史に登場する蘇我氏の一族の一人、蘇我倉山田石川麻呂。

仏教伝来の頃に名の挙がる蘇我馬子の孫にあたり、大化の改新で討たれる蘇我入鹿は従弟、その父の蝦夷が伯父になります。

しかも、この様に蘇我氏の一族でありながら、大化の改新の折には中大兄皇子側についた人物として有名な人物です。

更に言うと、中大兄皇子側につきながら、程なく石川麻呂自身も謀反の疑いを掛けられ、何と、この寺にて自害しています。

その後、天武天皇の時代に造られた山田寺の講堂のご本尊として置かれていた、薬師如来像が、後の興福寺仏頭になっていきます。

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元は山田寺のご本尊、興福寺仏頭

では、どうして興福寺仏頭が、場所も離れ、縁も遠いお寺から移って来たのでしょう。

それが起こったのは平安末期、武士が台頭し、そのトップの座が平氏から源氏に移ろうかという頃です。

当時と言えば、南都北嶺と呼ばれる僧兵集団もまた目立っていた時であり、実は山田寺の薬師如来像も、興福寺の僧兵たちによって奪われたものでした。

何故にこの様な事が起こったかと言うと、ちょうど平重衡の南都焼討ちにより興福寺が炎上し、再興の途中という時期だったからです。

移された薬師如来像は、東金堂に本尊として迎えられることになりました。

暫く祀られていたのが、今度は火災が起こり、最終的には新しく造られた本尊の台座に長らく納められていたのが、興福寺仏頭なのです。

まとめ

非常に数奇な運命を辿った興福寺仏頭。

台座の中に納められていたものが発見されたのは、昭和12年(1937年)のことです。

残る文献などから、抑も何処にあったものが移されたなどかも明確に解る、貴重な遺品として、現在「銅造仏頭」として国宝に指定されています。

僅か、頭部のみ残ったものですが、白鳳時代の貴重なもの、是非、今年は東金堂に訪れて拝観したいものですね。

今回は、山田寺より移され、一部分となりながらも現代に残った国宝、興福寺仏頭についてご紹介しました。

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